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山谷の歴史ときぼうのいえ
きぼうのいえができるまで
※「山谷の歴史ときぼうのいえ」は、
「きぼうのいえ 山谷の歴史・研究班」の独自の視点によるものです。
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高度成長期ー山谷暴動の時代

 高度経済成長の時代―わたしたち日本人の多くはそれを輝かしいものとして記憶しています。しかし山谷史関連の書籍ではそうではなく、光よりも影のほうが強調されます。山谷という影こそが高度成長を支えたのだと。

 けれども、その影には独特のニュアンスがあったように思えます。

 一方にはたしかに日雇い労働者を組み込んでいく巨大なシステムが屹立し、やはり悲惨としかいいようのない生活がありました。しかし、その光景はただ暗いだけの影というよりも、汗や泥にまみれた若い男性の肉体が無数ひしめきあい、躍動し、路上にはゴミが散乱し、ある意味で奇妙な熱気がありました。

 ここでは狩り込みの時代にひきつづく時代、ザ・山谷の時代を見ていきます。

新たな局面へ
 

統制の拡張

 はじめに高度成長前夜から高度成長期にかけて、密かに「統制の拡張」とも呼ぶべき趨勢が存在したことについて触れます。この趨勢は、やや周辺的には見えるけれどもそれなりに重要だったと思えます。

 一例を挙げます。

終戦直後の赤線 かつて山谷と吉原とが今よりずっと一体的な関係にあったことはすでに述べたとおりですが、1955年以降、吉原で黙認されてきた指定区域外での風俗営業に対する取り締まりが強化され、いわゆる売春婦と客の流れが双方とも一時期、山谷のほうへ移ってきたことがありました。が、それで終わりではなく、それらの人々の巣窟になった場所、組合に加入してない簡易宿泊所において彼らは一網打尽にされたそうです。

 警察の狙いは暴力団の経営するカフェを追放することにあったらしく、それはわかるのですが、ここで確認したいのは次の点です。

 つまり、いわゆる浮浪者に対する狩り込みが行われた時代、そのターゲットはじつは浮浪者たちだけではなく、売春婦なども含んだより広範なものだったのではないかということです。

 より俯瞰してみれば全日本規模で以下のような動きがありました。

ハンセン病隔離施設・長島愛生園−平和の鐘―そこに潜む欺瞞を批判する元患者らによって破壊されるという事件も起こった たとえばハンセン病をなくそうという動きがありました。正確に言えば、病気をなくすというよりも患者や元患者を排除しようという戦前以来の動きがこの時代にふたたび活性化しています。これを無らい県運動と言います。

 また、障害児を生まないようにしようという動き、障害児の生は不幸だと決めつける動きもありました。

 これらは戦前のことではなくて、まさに戦後のこの時期の出来事でした。

 戦後というとわたしたちの多くは価値観の自由化や多様化がすすんだ時代と考え、それは間違いないとは思うのですが、他面では、このように浮浪者や売春婦をはじめとして、様々な周辺的存在に対する統制が強められた側面もあった、そのような「統制の拡張」のひとつの舞台が山谷だったと考えられます。

 これはおそらく来るべき高度経済成長を支える勤勉な労働者を全国規模で規律し創出しようという企ての裏面だったと言えるのではないでしょうか。

精神病院

 ところで狩り込みの時代であれば、追い立てられた浮浪者たちは、ほとぼりが冷めればまた同じ場所へ戻ってきたわけです。

 しかし、権力の側には、そのようなイタチごっこに業を煮やす気分があったはずです。そして他方の取り締まられる側には、狩り込みを恐怖し、統制の拡張を恐怖する気分があったでしょう。

 やや先回りした話になりますが、高度成長期からそれ以降にかけて、やがてそうした2つの気分にはさまれるかたちで徐々に「精神病院」の存在がクローズアップされていきます。

岩波新書「心病める人たち」の著者・石川信義氏によるパリの精神病院がみえる風景 精神病院というのはその起源を調べると、たとえばフランスなどでは露骨に浮浪者を収監する目的で活用され、都市の衛生と秩序とを確立するために発展したという経緯があるようです。

 日本でも1964年、精神障害者によるライシャワー刺傷事件が起こって以来、精神病院が治安維持の目的で利用されるといった傾向が少しずつ色濃くなっていったと言われています。

 ここで重要なのは次の点です。

 つまり、浮浪者・路上生活者には、精神的に障害を負った者が少なくない事実があるということです。それは現在でも変わりないと言われています。

(朝日新聞2010.6.19の記事にのった調査によれば、知的障害が3割、精神障害が4割だったそうです)

 こうなると「状況的にそうだ」という信憑性が高まってきます。

 実数はわかりませんが、しかし、かつて狩り込みを受けた人々のなかに今度は医学の名において診断され、選別され、精神病院に送り込まれるのではないかという恐怖心が芽生えるのは十分にあり得たろうと思います。

 そして1984年、高度成長も終わりバブル時代を迎えようという時期になって、宇都宮病院事件という看護職員らによる精神障害者2名の暴行殺人事件が発覚します。

 これをただちに山谷と結びつけるのは飛躍のしすぎかも知れません。ただ、「やはり」というかたちで連想のピースがピタっとはまる、そうした位置にこの事件があったこともたしかでしょう。

 だからこそ山谷争議団のスローガンには以下のような文言が入っているわけです。

 どれだけの労働者が、酒を飲んだからといってトラ箱や精神病院に送られたことか!

人口の流入と肥大化

 けれども統制の拡張のような圧力にもかかわらず、殆どそれを凌駕する勢いで、山谷には無数の労働者人口がつぎつぎ流入してくるようになります。

 最盛期、ここには1万5千のドヤ生活者がいたといい、調査の網にかからない人々を加えれば推定3万人が生活していたといいます。(現在はその1/3、おそらくそれ以下です)

 こうしたスラム街は世界各国で見られるものですが、この時期の山谷は世界でも稀にみる規模の巨大さに達したそうです。

 「山谷ブルース」の著者エドワード・ファウラーは、「男たち」が山谷に吸い寄せられていく過程−したがって山谷の肥大化の過程を韻律ある文章で表現しています。

 第2次世界大戦後の全国的な工業化の波に呑まれた地方では農業地域社会全体が生計手段を失い、男は山谷などの寄せ場に流れ着いた。

  同様に「ドッジ・ライン」として知られる1949年の過酷な緊急経済計画が導入されて中小企業が直撃を食らったとき、男は山谷へ向かった。

 1950年代末に依存燃料が国内産の石炭から外国産の石油に替わって鉱山が相次いで閉山した時、男は山谷に向かった。

 1973年のオイルショック後、巨大な造船業が閉鎖してアラビア原油輸送用のマンモスタンカーが不要となった時、男は山谷に向かった。

 そして、1970年代から1980年代に安価な労働力と環境保護にうるさくない場所を求めて重金属アルミ産業が資本を移動して縮小した時、男は山谷に向かった。

 一方にはやむにやまれない時代状況があり、他方にはそれだけの魅力が山谷にあったと言わざるを得ません。何らかの理由で働き口が得られなかった人々がとにかく働き口が得られるという魅力、少なくともその幻想が山谷にはありました。のみならず、様々なしがらみから自由になれるという魅力―むろん大きな代償を支払うにせよ―があったと思われます。

 ともあれまさにこのときに、吉原との連続性が断ち切られ、過去からの連続性という意味でも断絶を孕んだかたちで「純粋な」日雇い労働者の街としての山谷、若い肉体労働者の街としての「ザ・山谷」が成立していきます。

 そのザ・山谷をいかなる仕組みが貫いていたか、これが次の問題です。

高度成長システム
 

企業の論理

 前掲のファウラーはこう書いています。

 これら総合建設産業の成功は皮肉なことに、多くの労働者をいかに雇用せずにすませられるかという能力に大きくかかっている。そのために子会社、孫会社、現場監督、手配師を通じて最後には山谷のような寄せ場に至るネットワークで仕事を手配する複雑な子会社制度が使われる。…幾僧にも重なったこの制度は、とくに景気の変動が極端な建設業界で大手企業に緩衝装置を提供する。底辺の男たちはもっとも景気がいい時期以外は、仕事数は最低で、寄せ場ではいつでも典型的に50パーセント以上の失業率に甘んじるしかない。

 ここでひとつの見取り図を示しておきたいと思います。

産業革命 まず、資本制という社会経済システムは、欲望を自由に追求すべしという原則のもとで発達してきました。その「自由」のうちには企業による「首切り=リストラの自由」が含まれ、その点ではファウラーがいうゼネコンの「いかに雇用せずにおくか」という能力は、資本制下の企業にとってはごく当たり前のこととも言えます。

 ただ、初期の資本制が「自由」を荒々しく行使したがために労働者が激しく窮乏化し、かえって社会は不安定になってしまいました。そこから労働運動が生まれ革命闘争が生じたわけですが、やがて国家が生存権を保障し企業が雇用を保障するというかたちで秩序の安定が図られ、こうして成立していくのが福祉国家という段階でした。

 初期の資本制が「切り捨て」を基本モードとしていたとすれば、福祉国家は逆に「包摂」を機軸としていると言っていいでしょう。

 これを補助線にすると戦後日本と山谷の特殊な関係があらわになります。

 まず、戦後の日本社会には終身雇用制という極めて安定した労使関係を構築していくという流れがあるわけですが、西欧の福祉国家とは異質と言われるにせよ、これも「包摂」のひとつのありようとは言えます。

 他方、戦後日本は驚異的な経済成長を実現しますが、その推進力になったのがゼネコンであり、ファウラーも同書で言うように、全企業に占めるゼネコンの比率の高さは戦後日本に特徴的でした。そのゼネコンを中心に形成された経済成長システムの末端に位置するのが日雇い労働者たちの寄せ場であり、そこではまさに「切り捨て」のモードが作動します。

 つまり、戦後の日本社会は人口の大部分を占める中流層と下層とで二重構造になっていて、その下層に対しては荒々しい「切り捨て」が行われたということです。

 そのゼネコンにはどういう特徴があったでしょうか。

 建設業というのは他の業種と違って一個の建築物が完成すればその労働者は不要になります。はっきり言えば建設業者にとって労働者を常時雇用しておくのは不利益以外の何者でもない、少なくともその傾向が格段に濃厚なのが建設業と言えます。

 もちろん建設は何度も繰り返されるのでたえず労働者は必要なのですが、必要なのはイキのいい若い労働者であって、老いた熟練の労働者はそれほど多くは要りません。むしろ、新しい血液をつぎつぎ導入でき、要らなくなったら使い捨てにできるシステムこそが建設業にとっては最適です。

 だから、ゼネコンは日雇い労働者を絶対に「包摂」しようとはしません。端的に労働者の生活のことは知らない、保障しようとしない。そうやって包摂せず排除したまま、しかも一回の切り捨てには終わらず、利用するだけ利用しようとする、これがファウラーの言う「いかに雇用せずにおくか」ということの真の意味でしょう。

 つまり、いつでも切り捨てられる労働力(労働者でなく労働力)のプールとして、寄せ場は企業の論理、ゼネコンの論理によって必要とされているわけです。

 そのゼネコンが牽引しながら戦後の高度成長とその成果としての「豊かさ」が実現したとすれば、中流層の「包摂」―それは豊かさの証と言えるでしょう―というのは切り捨てられた彼らを捨て石にしてこそ可能となった、あるいは控えめに言ってもそうした一面があったとは言えるのではないでしょうか。

 社会全体が「包摂」へと向かおうとしている時代にあってそうした包摂されざる者が必要とされた、そのコントラストこそ、山谷の悲惨の一端を示しているように思えます。

前近代との連続と不連続

 ところで、日雇い労働者そのものは実は近代以前から存在していました。城の改築や河川事業のため、短期で人夫を徴用し、金銭で支払っていたわけです。

 ただ、そうした仕事に従事したのは農民や町人ではなく、既存の生活秩序からはあぶれた者たちでした。あぶれ者たちが日銭を稼ぐために日雇い労働に携わったのです。

あの鬼平が石川島人足寄場の建造を建議しその責任者となった また、江戸期の市政はそうした労働力をつねに一定多数プールしておくため、彼らが住まう場所を指定し管理して、そうした場所に任侠の人々、いわゆるヤクザ者が巣食い、場所を仕切ったりするのを黙認したりしていたそうです。

 これを人足寄せ場、人足制と言います。

 この意味で山谷のような寄せ場には歴史的伝統があり、いつの時代にもあったものと見ることもできます。実際、ファウラーはそのように記述しています。

 しかし、かつて悪所と呼ばれ漂泊の民の町だった山谷が日雇い労働者の町に変貌していくのは明治以降であって、「純粋な」寄せ場に変貌するのは戦後のこと、とくに高度成長の時代以降です。

 したがって、山谷という場所の独自のニュアンスを言うためにはもう少し補足が必要に思えます。

 それは一言でいえばこういうことではないでしょうか。

 つまり、寄せ場の役割や機能が違っているのです。

 かつての人足制は必ずしも「成長」を下支えするものではなく、秩序からはみ出した者たちを再び秩序のなかに組み込み、権力のために有効活用することだけを目的にしていたように見えます。近代の山谷、もしくは近代の寄せ場一般にもたしかに同じようなところはあります。

経済復興と経済成長のシンボル・東京タワー ですが、寄せ場から引き出されるもの、その量、大きさ、成果が違っているように思えます。かつては城や防波堤などのインフラストラクチャーだけが作り出されましたが、それは既存の秩序に変更を命じない、いわばメンテナンスと言えます。ところが、それに対して高度成長期には、たとえば東京タワーの建造が呼び水となって「成長時代」そのものが創出されていきます。このとき構造物の生産は、決して一回的なものではなくて、それを誘因とするさらなる生産を目指しています。だからこそ「成長」していくわけです。いわば、ここでは社会がトランスフォームしていくのです。

 そうした高度成長の頂点に「列島改造」(1972年)が出てくるというのが戦後史の一断面と言えるのではないでしょうか。

 寄せ場の役割や機能が前近代とは違っているというのはこの意味においてです。

 日雇い労働者たちの労働は、こうして戦後社会に貢献しながら貢献した瞬間に忘れられていくという位置にありました。

寄生の重層

 ここで、前近代的な人足寄せ場を今日でいうヤクザが仕切っていたことを思い出しておきましょう。

 日雇い労働というのはいわゆる3K労働で、多くの人はやりたがらないわけです。そういう労働をゼネコンなり国家的戦略としての高度成長なりが必要としたらどうなるでしょうか。やりたくないものをやらせるわけですから、時にそれは「半強制」的な色彩を帯びることがありえます。

 そして、企業が手を染めたがらないそうしたダーティ・ワークを誰が代理し労働力を手配するかといえば、ここに暴力団が介在してくる余地が生まれるわけです。

網走刑務所はタコ部屋の原型となった 被災や貧困や病気のため、働き口がない者が路頭に迷っているときに誰かが肩を叩きます。そのとき、その人が最低限の食事や住まいを用意してくれると囁いたらついていく者もあるでしょう。しかし、どんなに働いても自立できるだけの対価を与えられないとすれば、その生活はやがて泥沼にはまっていき、いわゆるタコ部屋生活に行き着きます。「まるで強制収容所のよう」と形容されるのがタコ部屋です。それを警察や行政が黙認していれば、そこから逃れる手段は路上生活しかありません。

 ここに、タコ部屋生活と路上生活を2つの極としながら、そのあいだに大量のドヤ生活者という類型があるといった、山谷の典型的な生活様式のパターンが見出せるはずです。

 だからこそ、のちに急進化した山谷争議団の直接の敵は、ゼネコンそのものというよりも、ゼネコンの需要を満たすべく暗躍している暴力団ということになるわけです。

 ですが、いわゆる山谷暴動の最盛期に主要な敵と目されたのは警察でした。警察は狩り込みによって圧迫を加えてくるだけでなく、暴力団の活動を黙認し、時に暴力団への取り締まり以上に日雇い労働者や路上生活者に対して過酷に振舞うように見えました。

 そうした場合、あたかも警察と暴力団とがグルに見えるということがあったでしょう。実際、そうしたスキャンダルがあとになって発覚したので、「ヤツらはグルだ」という見方はますます説得力を持ったりしました。

 それだけでなく、ドヤというのは日雇い労働者が自立してしまえば経営に困るわけだし、そもそも暴力団の息のかかった旅館だって多いのだから旅館組合だってグルだろう…、さらに、俺たちにメシを高く売りつける食堂もグルに違いない…、俺たちを放り込む先の精神病院だって同じだろう…。

 したがって、われわれ山谷の労働者の不条理な状況はこうした「構造」によってもたらされたのだ…、そう言われると少し違和感があるかも知れません。たしかに確固たる一枚岩の構造があってそれが日雇い労働者たちを一方的に抑圧しているというのは必ずしも正確ではない気がします。ただ、ゼネコンや暴力団やその他諸々が互いにもたれあいながら、それぞれに利益を引き出しあう緩やかな関係が存在したのはたしかに思えます。

 包摂されざる人々に対して何重にも積み重なった寄生の構造があった、強い言い方をすれば最大の寄生者が戦後社会だったという言い方は成り立つのではないでしょうか。

暴動
 

 以下は1960年8月1日の出来事です。

 すでに最初の小さな事件は起きており、警察も今度は対応を間違えないようにと注意していた矢先のこと…。(引用は前掲「現代棄民考」より)

 同日の夜7時50分頃、マンモス交番から2軒へだてた山谷宿泊所に、労働者のNが「友人に金を借りたい」と訪ねてきた。Nは酔っていたので旅館の番頭が玄関で追い返そうとしたところ、動かないので押し問答になった。みていた管理人が仲裁にはいると、Nは管理人の右ヒザに食いつき、取っ組み合いとなり、2人とも顔などに軽いケガをした。

 どんな暴動もキッカケは実に小さなものです。

 ですが、その背後に可燃性の空気が充満していれば、どんな小さな出来事も大火事を起こすには十分過ぎます。

 同8時10分頃、知らせをうけてマンモス交番から2人の警官が駆けつけ、組み合っている2人を傷害現行犯で同署に連行した。騒ぎをききつけて交番の周りに労働者が集まりだした。労働者たちは、警官に連れられた顔中血だらけのNをみて「警官に殴られた」と勘違いして警官をののしりはじめたので、労働者が更に周りに集まりはじめた。警官側は、先月26日の例もあって事件が大きくなってはたいへんだと思い、急いで2人をタクシーに乗せ、浅草署へ送った。そのことが周りの労働者の不信をつのらせてしまい、暴動の発端になってしまった。

 その「勘違い」の背景にどれだけの怨念があったかということでしょう。あるいは警察は1つのシンボルに過ぎなかったかも知れません。

 同9時過ぎ、マンモス交番の前には群集約3000人が集まり、交番のヨシズを通りにひきずりだし、火をつけた。それを近くの商店の看板といっしょに交番のなかに投げこんだため、机やイスが燃えだした。消防車3台と装甲車が駆けつけたが、たちまち群集にとりかこまれてしまった。消防車の1台はホースを引き出されたり、エンジンをメチャメチャにこわされたりした。

 機動隊460人、浅草署員130人が対応に駆けつけるが、群集は野次馬も含めて3000人以上にふくれあがり、マンモス交番をぐるりとかこんでいて、手がつけられない有様であった。交番の前に整列した機動隊員にレンガやカワラが投げつけられた。

 装甲車の上からスピーカーで「投石する者は検挙する」という警告がくりかえされたが、群集は恐れる気配をみせなかった。そのうち、機動隊が列を整え、ジワジワと群集を押しはじめ、並行してなかにまぎれこんでいた私服が投石者を次々とひっぱったため、同11時過ぎおさまりはじめた。

 午前零時、群集は1000人ほどに減ったが、小競り合いは未明まで続いた。この騒ぎで警官側は28人、消防署員は15人、労働者側は10数人、重軽傷を負った。一方、10人が公務執行妨害、傷害、暴行、放火の現行犯で逮捕された。

山谷暴動 群集3000人、機動隊460人というのが暴動の規模を物語っているでしょう。

 その後10年、山谷は12度にわたって繰り返し暴動の舞台となります。

 他方、大阪の西成地区でも暴動が起こり、問題は密かに全国規模に拡大していきます。

  しかし、すでに空前のレベルで豊かな社会を実現しつつあった戦後日本にあって、そうした暴動は必ずしも社会を揺るがすものにはなりませんでした。

 やがて山谷の暴動問題は自然発生的な次元から争議団と金町一家との抗争といった次元へと移行していき、いつのまにか収束します。

 戦後には様々な解放闘争がありました。

 占領改革からはじまって、ブルジョアの自由化運動、労働運動、そして学生運動や女性解放運動…などなどです。そうした解放闘争の、ある意味で最終ランナーといえる山谷の活動は静かに終焉を迎えたと言うべきでしょうか。

 そして山谷は長い斜陽の時代に入っていきます。

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