はじめに山谷という地名の由来について触れておくと、浅草の原、浅茅が原などのつづきだから「三野」と呼ばれたという説(「江戸志」)と、人家もまばらで三軒くらいしかない野っ原だったから「三家」とか「三屋」などと呼ばれたという説(「江戸往古説」)とがあるようです。
いずれにせよ、江戸の喧噪が途切れ、だだっ広い荒野が開けていくイメージです。
つぎに地理的な条件をもう少しつっこんで考えてみましょう。
いわゆる山谷とは、泪橋交差点を中心にして台東区・荒川区の両方にまたがる簡易宿泊所の密集地帯をいいます。面積は約1.65k程度の小さな場所です。けれども、ここで考えてみたいのはその周囲を含んだ地理と歴史です。あえて呼ぶとすれば「山谷エリア」「広義の山谷」といったところでしょうか。
山谷からみて南に位置する浅草は、古くから江戸湊や品川湊とならぶ旧武蔵国の代表的な港でした。
「湊」というと意外かも知れません。しかし東京は、徳川氏の入府以前は一面湿地帯で葦が生い茂っていたといいます。これはかつて人が住むのには不利な条件でしたが、その反面では水運が発達する条件にもなりました。ですから江戸時代初期、江戸という都市の課題とは、大雑把にいえば葦を刈り込んで人が住めるようにすることと、水路を整備したうえでそこにヒトやモノが行き交う一大市場をつくりあげることだったと考えられます。
今日でも浅草の北、山谷地区との境界あたりに山谷堀公園というのがありますが、これなどはまさにそうした数多くの水路(堀割)の名残りであって、江戸らしい風景を伝えるものといえそうです。
山谷堀は隅田川に流れ込み、水害対策にはじまって、川の排水や干拓の補助などの役割を果たしたそうです。しかしそれだけでなく、山谷堀をさかのぼっていくと吉原方面につづいていて、遊客たちは船で吉原まで通ったそうです。
現在は吉原大門交差点に移された「見返り柳」というのは、帰路の遊客たちがあまりに楽しかったので後ろ髪をひかれ、この柳あたりで遊郭をふりかえったところからついた名だと伝えられています。
他方、山谷からみて北東に位置する北千住も、古くから青物や川魚の朝市がたち、それが有名になるほど川や物流に密接に結びついた町でした。
隅田川にかかる千住大橋がひとつの象徴でしょうが、もうひとつには、水の神様を祀ったのがはじまりという説のある氷川神社が北千住にもあって、そのことが千住と川との結びつきを裏づけているといえるのではないでしょうか。
しかし北千住はそれ以上に、日光街道・奥州街道の宿場町として栄えたことで知られています。
江戸という都市は最初、江戸城や日本橋あたりを中心とした小さなものでしたが、しかし、時代を追うにつれだんだん大きくなって、最終的には元禄時代の学者、荻生徂徠が書いているように、北千住あたりを「大江戸八百八町」の北限とするサイズに落ちついたようです。
そうすると千住の宿は、少なくとも江戸中期には、まさに江戸の入口部分に位置するといった意義をもっていたとみることができるでしょう。
そこから南方の、現在の山谷地区にいたるまでは、旅人や行商や遊客など、雑多なひとびとで賑わい、多くの旅館が軒を連ねました。その後、とくに山谷地区では性格が少々変わったとはいえ(後述します)、江戸時代も今も、このへん一帯は「旅館の町」といった風情だったと考えられそうです。
このように山谷は、水路や陸路といった交通網の集まる場所に挟まれていたので、かつてそこはヒトやモノが行き交う活気のある場所だったと思われます。
しかし同時にそれは、多くの農業民、あるいは移動せずに生きる平均的なひとたちからみれば、見知らぬものや怪しげなものが侵入してくる混沌とした場所にも見えたかも知れません。
山谷のおかれた地理的条件は、そうした活気と混沌とを双方ともに感じさせてくれる場所だったのではないかと想像します。