山谷の暴動時代は、労働運動の後退からワンテンポ遅れた時期、80年代の末に終息します。 なぜ暴動が起きなくなったかと言えば、一つには、日本社会が未曾有の豊かさを実現し、日雇い労働およびその失業状態でさえ底上げされたということがあったと考えられます。 また二つには、暴動が厭きられたということがあったかと思います。金町一家の制覇が一定の秩序を山谷にもたらしたという話は当時を知る人から証言を聞くことができますし、書籍類にもそう書いてあったりします。 ですが、それと同時に山谷の若い労働者たちが少しずつ年齢を重ねていったことも大きかったように思えます。それは、まずは暴動よりも生活を大事にするようになるといった意味においてですが、それ以上に、バブル経済が終わったとき彼らの老いは明らかで、暴動を起こす余力はなかったように見えるからです。 それだけではありません。 前掲のファウラーが「調整弁」という言い方をしていますが、バブル崩壊の影響がもし私たちにとってそれほど深刻に感じられなかったとすれば、それはその悪影響がいち早く寄せ場を襲い、それがクッションになって私たちを守ったからです。逆に言えば、不況の波は深く重く山谷を襲ったわけです。 そのとき山谷では、すでに日雇い労働者の集まりが「力」(たとえば暴動を起こしたり、互いを守りあうような)を失っていて、にもかかわらず、労働者たちの肉体は衰え、ゼネコンの論理からすれば徐々に使いものにならない存在になっていました。 やがてドヤにも住めなくなった者たちは路上へと流れていくしかありませんでした。 たしかに山谷には昔から路上生活者がいたでしょう。 しかし、そうした地盤の上に「日雇い労働者の街」が覆い被さっていたので、もともとあった地盤は見えにくくなっていました。 けれども不況と老化によって中間がけし飛ぶと、ふたたび地盤があらわになりました。 そのうえに、こんなこともあったようです。 1996年に東京都と東京23区は互いの了解のもと路上生活者に各区が生活保護を行い、自区内で住居が決まるまで山谷に預ける「規則(ルール)」を作った。一時的に預けるという措置だったが保証人などの問題もあり、その後も各区が再度引き取ってアパートなどを探すことはあまりなく山谷に連れて行かれた後そのまま放っておかれるなど、長期にわたって住所不定のままになっている人が少なくない。こういったことから、山谷は「棄民の街」と揶揄されている。(ウィキペディア) 路上生活者の実数は推定でしか計れないのでよくわからなかったりしますが、90年代以降、山谷はこうして「日雇い労働者の街」という以上に「ホームレスのイメージ」が強くクローズアップされるようになります。 経済上の理由、肉体的な巡り合わせ、そして行政上の不作為もしくは不作為の作為によって、山谷は長い斜陽の時代に入っていったのでした。 (※この間、大阪の西成地区は依然として労働者たちが若く、寄せ場の性格や現状が東西で対照的になったと言われますが、なぜそうなったかについては別途考える必要がありそうです。このコーナーでそこまで手を広げる余裕があるかどうかはわかりませんが)
山谷に対する支援活動は戦後の早い時期からありました。その主要な担い手は宣教師たちであり、その広義の一例には「蟻の街のマリア」が含まれるだろうと以前述べました。それ以外でも、支援活動に青春を捧げた無名の神学生の話などを、この山谷にいると聞くことができます。 やがて全国規模での労働運動の高まりと共振しながら山谷でも日雇い労働者たちの運動があったこともすでに触れました。これは山谷の内側から起こってくる運動があったと同時に外部から介入してくる活動家たちもいたらしく、その点が問題をややこしくしている面もあるようです。 そして福祉行政が曲がりなりにも少しずつ軌道にのってくる流れがありました。しかし、おそらく行政上の措置よりも、国民全体における意識の変化が大きかったのではないかという感触があります。 というのも、今、この山谷を闊歩しているのは有志のナースでありヘルパーでありボランティアたちであって、それは制度による「上からの支援」に対して下から内実を与えていくような活動に見えるからです。 慈善活動の基本型が、持てる者が持たざる者に対して哀れみの感情を持って(場合によっては気まぐれな感情で)一方向的に施しを与えるタイプのものだとすれば、感情を交えず公平に、没人格的な制度によって継続的に「上から」救済しようとするのが福祉国家の基本原則です。 それに対してボランティアや当事者たちの参加や連携によって実現するものを福祉社会(福祉国家でなく)と言いますが、当事者参加という課題が残るとはいえ、現在の山谷はある意味で「福祉社会の実験室」の段階にあるのかも知れないと思います。 「ホームレス」をただネガティブなイメージで見るのでなく、それが同時に積極的な意味で「福祉の街」たりうるかどうか、山谷は今、岐路に立っていると言えるのではないでしょうか。
マザーテレサが山谷を慰問したのは1981年のことでした。山谷という場所が貧困と病い、そしてそれらが行き着く先としての「死」が集約的に現れる場所が土地だからこそ、マザーの関心を引いたのだろうと想像します。 そして2002年、きぼうのいえがオープンします。 きぼうのいえもまたマザーと同じように貧困や病いに注目しています。しかし、国情や社会的条件が違うので、活動のニュアンスも違っているかも知れません。 最後にそのことに触れておきたいと思います。 まず、旧ホームページの挨拶文で山本施設長が「温かい食事と住まいを提供し…」ということを書いていますが、これは、ホームレスが増加する山谷において、まずは「ホーム」を再建しようということを意味しています。 これは表面的な形だけとらえれば、住まいを持たないひとびとに部屋を貸しているだけに見えるかも知れません。だから看護主任の山本夫人は「女将さん」なわけですが、もう少し踏み込めば、彼らがかつて得られなかった家族のような関係をこそここで作れるといいという、そんな願いが込められています。 これは小さなことかも知れませんが、決して意味のないことではないだろうと考えます。 たとえば、そもそも「ホスピス」というのは元来、人間としてのトータルなケアをする場所のことを言うのに対して、厚労省の定める「緩和ケア病棟」では、入所できる病気の種類が定められ、また、その名の通り、病院に併設されていなければなりません。 しかし、死にゆく人間たちにとって、それでは門戸が狭すぎると言うべきではないでしょうか。 まず、当然ながら癌患者だけが死ぬのではありません。すべての人間は死ぬのであって、とりわけ超高齢社会の現在、ゆるやかに朽ちていく過程に入った無数の人々はすべてホスピスで最期を迎える資格を持っているはずです。 また従来であれば、家庭から病院へ、そして病院から緩和ケア病棟へとコースが定められていますが、医療がそれ以上、治療という意味では手の施しようがないのがターミナルだとすれば、そうしたターミナル期までが医療の管轄下にあらねばならないというのは非合理に思えます。 そもそも従来の緩和ケア病棟は、いわゆる「畳の上で死ぬ」といった在宅死を支え補う施設と想定されています。ターミナル期を家で過ごす、心配や問題があったら病院併設の施設へ、というわけです。しかし、そもそもそうした「ホーム」がない人たちはどうすればいいのでしょうか? 私たちの「ホスピス」では、最後の最後だけ特別な場所で過ごすというのでなく、生と死はもっとゆるやかにつながっていて、最後の過程に移行していく長い生活時間の全体こそがターミナルだと考えます。 死ぬ直前まで、人間というのは食べたり寝たりテレビを見たりお喋りをしたり…と普通の日常を過ごします。そうした場所を提供することこそ「ホスピス」の役割だと考えるわけです。 そのためには、まず家が必要でしょう。 その家は、建物や部屋という意味から始まって、温かい食事という意味がつけ加わり、さらにはできるだけ楽しく食べるという意味、そして家族のような温かさという意味につながってきます。それらがあって初めて最後の時間をともに過ごすことができるのではないでしょうか。 そうした場所へ招き入れること、歓待=ホスピタリティーの場としてホスピスはあるのだと思います。 こうした考えや試みは、一方では現代医療とちょっと違うことをやろうというものであり、また他方では、山谷の現状にも対応しています。そこにはホームをもたない人々がいるからです。 ですが、当然ながらこれは山谷が抱える様々な問題のすべてに応えるものではありません。その意味ではやはり「小さな」と言わねばなりません。 むしろこう考えられるのではないでしょうか。 つまり、この山谷では、すでに様々な支援活動が行われていて、それは生老病気死といった人間の各ステージに対応しているはずです。それぞれのテーマは炊き出しだったり就労支援だったり魂のケアだったりと多岐にわたりますが、それらは徐々に一個のネットワークとなりつつあって、その最後にバトンを受け取る位置にいるのが私たちきぼうのいえであると、そのように考えられると思うのです。 先ほど「福祉社会の実験室」という言い方をしましたが、山谷という土地に築かれるべき、来るべきネットワークの一端を担う位置を占めたいと私たちは考えます。
これまで山谷の歴史を追いかけてきました。 そこには現在の山谷とは直接つながらない歴史も少なくありませんでしたが、一貫して辺境であり続けてきた点では共通性があった気がします。 そして、たとえば死刑場の歴史が解剖技術を高め近代医学が華開くのを準備したり、最底辺の労働環境だったからこそ資本主義の矛盾を最も高い到点において撃つことができたりなど、時代ごと、それぞれ辺境だからこそ抱え込まねばならなかったマイナスは、それぞれに何らかのポジティブなものを生み出してきたようにも思うのです。 そして今、山谷は斜陽の時代にあって岐路に立たされていますが、それは同時にポジティブなものを生み出すための陣痛の時代とも言えるのではないでしょうか。 山谷は現在、外国人旅行者や国内の女性旅行者などが安く宿泊できる場所として新たに注目されていると言います。また、いわゆる「負の歴史」も観光資源として新たな角度から眺め返されたりしているようです。 「最後の昭和」と言われた山谷でも刻一刻と歴史の針は進んでいます。 泪橋交差点からは建造中のスカイツリーが見渡せるようになり、高層ビルも少しずつ建って、お陰で私たちは隅田川花火大会を特等席でみる特権を失いました。 そうやって何かが消え、また新しい何かが顔を見せはじめています。 私たちは自らの活動がよってたつ山谷の歴史をこれからも注視していきたいと思います。