現在の山谷は主にドヤ街からなっていますが、そうしたドヤ街が成立する以前、広義の山谷エリアには非常に特色ある歴史がありました。
そのうち私にとって興味深いものがふたつあります。ひとつが処刑場であり、もうひとつが遊郭です。いずれも暗いイメージがあるかも知れませんが、しかし、逆にいえば、これほど存在感があるのも珍しい気がします。
まずひとつめですが、山谷の最寄駅、南千住の駅前には、延命院・回向院という名所があります。ここには江戸時代、小塚原刑場(こづかっぱらけいじょう、こづかはらけいじょう)というのがありました。
品川の鈴ヶ森とならぶ巨大な処刑場で、もともとは日本橋の日本銀行本店付近にあったらしいと推定されているようです。それが時代を追うにつれ、まずは鳥越へ、さらに聖天町西方寺前へ、それから最終的には小塚原へと、水戸街道を北上するかたちで移動してきたそうです。(黄木土也「小塚原刑場史」新風舎)
これは「地理的条件」のくだりで触れたような、江戸という都市の膨張過程に対応しているとみることができるでしょう。また、ここは幕末の志士、吉田松陰や橋本佐内が刑死した場所として知られています。それだけでなく、蘭学者の杉田玄白、前野良沢たちが屍体解剖を見学し、のちに西欧医学の翻訳書「解体新書」を著すきっかけになった記念碑的な場所でもありました。
江戸時代の当時、屍体解剖は非常に珍しい出来事だったといいます。屍体にメスを入れる行為は忌み嫌われていて、屍体解剖は一般人ではなく死刑囚のようなひとびとに対してだけ、ごく稀に許可がおりるにすぎなかったようです。
ですから、反体制的な思想家が刑死した歴史的事件の舞台になったということと、そこが近代医学の出発点になったということとは同じ条件のうえでの出来事だったと言えそうです。
ふたつめに、山谷の近隣に吉原という歓楽街があって、江戸時代、ここで有数の遊廓が栄えたことはよく知られたことと思います。
山谷と吉原とは一応べつべつの地域と理解するのが普通ですが、しかし、かつて両者の境界はそれほど明確ではなかったようです。たとえば、今川勲「現代棄民考」(田畑書店)という本には次のように書かれています。
『当時(昭和14年当時)山谷は純粋の労働者の寄せ場というよりも、吉原という売春街と隣り合わせていたことから、吉原を目当に上京する地方からの遊山客の安価な宿場であった。また、吉原にさえ見放された遊女たちが最後に身を寄せてきた場所でもあったし、大道芸人や行商人の係留所でもあった』
戦後(昭和20年以降)、風俗営業の取り締まりが強化されたり、また他の要因が影響することによって、山谷と吉原の関係は時期によって強まったり弱まったりしたようですが、とくに高度成長期以降、山谷は「純粋な労働者の町」としての性格を確立していきます(後述します)。
むろん、山谷はそれ以前から労働者の町ではあったわけですが、この引用文が示唆しているのは戦前、必ずしも山谷が「純粋な」それではなかったということです。少なくとも人口構成からすればそうらしい。
さらにいえば、江戸時代の山谷が「労働者の町」だったはずがありません。「労働者の町」というのは産業化の始まった明治以降にしか成り立たないからです。
そうすると、次のように図式化できるかと思います。
はじめ、山谷はあえていえば漂泊民の町だった。しかも吉原との境界がはっきりとせず、この地域には旅人のみならず行商人や遊女・遊山客、大道芸人、それから刑吏集団などのような、多様なひとびとで溢れていた。そのうち繁栄していたのは巨大な遊郭をかかえる吉原のほうだっただろう。が、それがやがて山谷と吉原のあいだに境界ができるようになって、一方の吉原は歓楽街としては傾いていった。そして他方の山谷は「日雇い労働者の町」、もう少しいえば肉体労働に適した「若い男性の町」といった性格をつよめていき、特有の活況を示すようになると。
急いでつけ加えると、吉原の遊郭も小塚原刑場と同様に、江戸の初期には日本橋界隈にあって、それがやがて現在の千束町あたりに移転してきたといいます。刑場も遊郭も、都市の変貌にともなって場所を移動してきました。
ですが、それぞれが存在する/した理由は違うわけですし、それが都市周辺へと追いやられ移動してきた経緯も違うわけです。ですから、両者が最終的に似たような場所に落ち着いた意味を殊更強調する必要はないでしょう。偶然にも興味深い歴史的地層がそこに積み重なっているということ、それだけを確認できれば十分ではないでしょうか。